人気ブログランキング | 話題のタグを見る

脱肉食生活

肉食生活の次がコレか、と笑われそうですが(苦笑)

ルームメイトと相談して、そろそろ脱肉食生活するか、という話になりました。
脱肉食、というのは、完全なベジタリアンではなくて、とりあえず肉やめる努力しよう、ということです。
(なので魚はOK。何故かは後で書くから、ここでつっこまないこと!)
理由は、腹がでてきたから、ではなくて、単に、「それでもいいかな」というところです(笑)。

はっきり断言しますが、私は肉の味が好きです。
(でなきゃあんなデカイステーキなんて焼かない)
ルームメイトはあまり好きではないので、たまに私が「肉食わせろ!」とわめいて塊肉を買って来る、という感じです。こないだもローストチキン買ったばっかだし(笑)

なのに、何故脱肉食か、というと……
多分、ウサギを飼っているから、かな? (笑)




実をいうと、こんな気になった私自身が、一番そのことに驚いたりしています。
何故なら、日本に居た頃には考えられない心境の変化だからです。
そもそも、「ベジタリアン」という言葉やそれを実践する人達に、どこか「偏っている」という偏見が全くなかったと言えば嘘になる。栄養的にも、思想的にもです。
ベジタリアンになる理由は人それぞれでしょうが、たとえばアレルギーなどの理由で肉が食べられないなら「ああそうか」で済むのに、自分の意思で食べない人には、「ふーん…?」って感じになる、というのが、もう偏見があった、という証拠だと思う。

ところが、こちらに来て、ベジタリアンの友人(複数)ができ、彼等の食生活を見るにつけ、それが偏見であることがはっきり自覚出来ました。
栄養のことをいうなら、彼等は栄養バランスに関してよほどMeet Eaterより細やかであるし、宗教が理由であれ、動物愛護(という言い方は適切でないかもしれませんが)が理由であれ、彼等がベジタリアンになることを選んだ理由は決して「偏って」などいないのです。
上手く表現できないのですが、より多くのライフスタイルを吟味した結果、そこに行き着いた、というそういう印象をうける。だから、彼等は、ベジタリアンでない人の食生活も同等に尊重します。私などは遠慮して、ベジタリアンの友人が来る時のおもてなしはNo Meet, No Fishで通してしまうのですが、彼等は「1品くらいベジタリアンフードで、あとは肉でいいのよ」と言うのです。
実際、母親はベジタリアンだけど父はそうではなかった、という風に、一家の中にベジタリアンとそうでない人が混じっているケースもかなりあります。

そんなわけで、私の中の「ベジタリアン」に対する偏見はすっかり払拭されてしまったのですが、もう一つ、私には目からウロコの出来事がありました。
職場のコラボレータの一人は、魚は食べるけど肉は食べないのです。理由は、魚の方がヘルシーだし、動物が好きだから。以上!
なんだか、「え、それでいいんだ?!」という感じで、かなりびっくりしました。
考えてみれば、アタリマエの事なんですけどね。動物好きだもん。肉要らない! 食生活なんて個人の自由なのに、それのどこが悪いのか。
(同様に、魚好きな人は魚やめて肉だけ食べてもいいわけです)
でも、その言葉を聞く前の私は、どこかで、「肉食わないんだったら、魚もやめないと不公平だよね」と思っていたのです(笑)魚だって生きてるもん。なんで動物は食っちゃいけなくて、魚ならいいのか? って。
ところが、いきなり完全な菜食主義は私にはハードルが高すぎる。絶対できっこない。だから、やらない。そういう感じでした。
大体、食べたいものを何かある崇高な思想のために我慢して食べない、というのは、「修行」に通じるものがありますよネ。そういう、「ベジタリアン」という言葉に感じる禁欲的なイメージや圧迫感(あくまで私が過去に持っていたイメージですが)が、結局「肉を食べない」という一つの選択から私を遠ざけていた、と思う。
でも、ホントにそんな「思想」が必要なのか? たかが、肉食をやめるくらいのことで?(笑)

そういう下地ができつつあったときに、我が家のニューフェイス、ウサギのまんごろし太君(最近はもうろし太と呼んでいるが)がHRSからやってきたのです。
まんごろし太君は、日本ではまだちょっと珍しい「ミニサテン」という種類で、もともと、「ハバナ」という種類から生まれた突然変異で毛がきらきらと光るものをそう分類したそうです。
ハバナというのはもともと肉用の種類でした。なので、まんごろし太は、先代のピーターラビットのように愛らしかったろし太より、体も大きいし、肉付きもいい。
顔も、鼻のまわりがぷっくり膨らんでいて、いかにも食えそうです(笑)。
先代ろし太はドワーフうさぎで、小さすぎて食べるところなさそうだったし、お嬢さんズはダッチのミニウサギだけど、灰色だからなんだかまずそう。
でも、まんごろし太は、白地にミソっぽい茶色のブチというおもろい柄も手伝って、食ったらそれなりにうまそうに見えるのです(笑)
大体、HRSがつけた仮の名前も「マンゴー」だったし、こいつには食い物を連想させる何かがあります(笑)

さて、そこで、思い当たるわけです。
今、大災害がおきて、手元にウサギとマッチだけ残されて、1ヶ月山に取り残されたとする。
ウサギは、そのへんの草を食えて、水も飲める。
いよいよお腹がすいた時、自分はまんごろし太を殺して食えるだろうか?

多分、間違いなく、ノーだと思います(笑)
それだったら、ウサギほど優れた盲腸がなくても、草食って木の根かじって、もしかしたらイモムシも食って生き延びるんじゃないかな? と。
勿論、その場になってみなきゃわからないけれど、まんごろし太しか存在しないならともかく、口に入るものがあるのに彼を殺す気にはなれないんじゃないかな?

では、どうして、スーパーのお肉は毎日買って食べるんだろう、という素朴な、でも今まで故意に深入りしないようにしていた疑問に、まんごろし太がやってきてからかなり頻繁にひっかかるようになりました。
勿論、可愛がっているペットのウサギと、生きている時の姿を知らない牛や豚や鶏と、感情的に比較するのは無理だけれど、では、そのお肉がお肉になる前の生きた動物の形で売られていたらどうだろうか。実際、ヨーロッパの市場では生きたウサギが売られてることもあるし(まんごろそっくりのやつが)。
あれを、日曜日に買って来て、さばいて食べるか? と言われたら、100%ノーです(苦笑)。
これだから女子供は、と言われようが、感情的だとキメつけられようが、ダメ!! 
だったら、ジャガイモでも食ってます。ええ。。。

こういう話には、勿論、多種多様の反論がつきものです。
1)可哀想だというが、じゃあ、魚はどうなのか、植物なら搾取してもいいのか
2)お前一人が食わなくたって、殺される動物の数はかわらない
3)畜産業に関わる人達の生活はどうなってもいいのか
などなど、、、、ええ、いくらでも。
それは、かつて私自身も考えたことで、だから、この問題はそう簡単に結論できない、と思っていました。

でも、そうじゃないヨ、ということが、友達やこちらでの生活をとおして、なんだかわかってきた気がするのです。
リクツがどうの、じゃなくて、自分の気持ちでかまわないんだ、と。
結局、何がうしろめたかったかというと、自分では殺せない生き物を誰かに殺してもらって、食べている、ということなのです。
自分で殺さないと食べられないものなら、まあ、食べなくてもいいか、と今思えるなら、今食べなくてもいいじゃないか、と。
自分で絞めてでも食べたい、と思ったときには食べる。こんなカルイ気持ちで脱肉食生活でも、べつにいいじゃん、と「気付いた」(苦笑)。今更ですが。
「殺生は絶対ダメ」と言ってしまったら、みんなくじけてしまう。「all or nothing」が世の中に定着したためしはない。
この程度でも、失われていく命のことをわざと見ないようにするよりはいいと思うのです。
そういう「プチベジタリアン」や「プチ肉食リタイヤー」が増えたら、もしかしたら畜産業にも影響を及ぼすかもしれないけど、そのときには多分、今よりもう少し殺される命の側に立った畜産に変わっていくのだと思う。

で、魚ですが(笑)。
私は魚を食べるのにあまりうしろめたさは感じないのです。私は魚とコミュニケーションがうまくできないので(笑)、昔から魚をつってきて自分でさばくことに抵抗はありません。
(コイはちょっと恨めしそうな顔をするので、あんまりさばきたくないですが、、、)
なので、当面、魚は食べます。同様にカツオダシも可。
魚だって、水揚げされて息ができなくて苦しみながら死んでいるのだろうけど、屠殺場に連れて行かれ、最後の瞬間まで仲間の死を見ながら恐怖に震えているだろう家畜動物の死ほど恐ろしいものだろうか、と思うと、やっぱり先にやめるのは肉かな、という気分になります。
もっとも、将来美魚?にハマって、「ダメ! 殺せない!」と思うようになったら多分そのときは魚もやめますが(笑)

(ところで、たまに「屠殺される動物は気絶させられて死の瞬間は痛くないんですよね?」という類いの質問を目にすると、なんとも言えない気分になります……たとえ死の瞬間に意識がなかったとしても、そこへゆくまでの道のりが問題なんじゃないか、と。人間よりよほど感の鋭い動物たちは、自分達がどういう目的でトラックに詰め込まれるのか、ほぼ正確に察知してると思うし、そうでなくとも底知れない不安に苛まれていることは間違いないと思う。犬だって病院につれていくために車に乗せるのには手こずるけど、散歩なら喜んで乗って来る、くらいのことは当たり前ですし。
私が家畜動物だったら、もちろん痛い苦しい死に方は絶対イヤだけど、ベルトコンベヤーに乗せられて殺される順番を待つのが一番イヤだなあ。失血死自体は、切られて痛いのをのぞけば、割合すぐに意識がなくなってくれるから、できれば私にそれと気付かせず、一瞬で首をきられる、とかいうのが一番いい。
今でもイタリアの農村なんかでは自分の家で家畜をさばくところもありますが、これなら殺されると感づいてから精々数十分であの世行きですよね。せめてそのくらいでおさめてほしい、と思うわけですよ……勿論、ベルトコンベヤーの上で気絶させるのに失敗して、意識があるまま首切られて逆さ吊りだの、熱湯にドボンだのなんてのは問題外。<実際あるらしいです。それも結構な割合で…)

実は、日本というのは、非常にベジタリアンにとって過ごしにくい土地らしいんですね。
友人は、「何を買ってもフィッシュパウダーやブイヨンが使ってあるから、食パンくらいしか食べられなかった」と言っておりました。
たしかに、よくよく見てみたらその通り!
こんなにすさまじい肉の消費量のアメリカでも、レストランに行けばひとつやふたつはベジタリアン・メニューがあるのだけれど、日本では揚げ出し豆腐ひとつとってもカツオダシが使われていて、そのへんもNGなまっとうなベジタリアンには本当に食べられるものがないのです。
みそ汁も、そばもうどんもダメ。スナック菓子にも使ってあったりする。
見た目は肉を使っていないものも多いから、よけい切ないのだとこぼしておりました。
自分でこぶダシで作ればいいですが、旅行者には無理な話です。

このへんが、やはり、日本という国の狭さかなあ、と、ふと思いました。
肉が好きな人もいれば、魚だけOKな人もあり、ブイヨンも駄目、卵すら駄目、という人が、外の国にはもっと普通にいる。
日本もそうすべきだ、といいたいのではなく、それが、あまり「普通」に見てもらえない、そういう空気が、日本にはあるんじゃないかな、と。
何か食べないというと、偏食かときかれ、そうではないけど食べないと言えば、「それはお前の勝手だから不便はお前が我慢しろ」という理屈になってしまう、そういう傾向があると思うのです。
そうじゃなくて、もっと、気楽に食生活を選べないものかな?
「きらいではないけど食べない」という選択が、もっと市民権を持つようになってもいいんじゃないか、と。

国の外に出ると、学ぶことは沢山あるのだけれど、それをどうやって国の人に説明するかに、いつも迷います。
さて、次に実家に戻ったときに、どうやって「肉は食べないヨ」と説明するかな(笑)。
(ま、私が何かベジタリアンフードを覚えて帰って、作ればいいんだよネ。。折角ベジタリアンの友達がいるんだし!)
by lily_lila | 2007-11-10 12:02 | 渡米生活...食

渡米生活日々の備忘録。


by lily_lila